いしいしんじレクチャー@メリーゴーランド その2

いしいしんじが選ぶ古典3冊」

レクチャーのテーマが古典ということで、いしいさんが3冊ほど本を紹介してくれました。まず、トーマス・マンの「魔の山」上・下。文庫ながら、激しく厚いこの本。これは田村隆一が「大学のうちに読みたい本」として薦めていた本らしく、いしいさんはそれを高校の時まず読んでみたとか。「わからない。難しい」。その後、大学時代、社会人になってからと読み進めていく度に、ところどころわかるようになってきたとか。話自体は「何も起きない。説教ばかり」だそうですが(笑)、読む度に何かを感じられたら面白いですね。

魔の山〈上〉 (岩波文庫)


2冊目はプラトンの「プロタゴラス。徳は人には伝えられないものだとするソクラテスと教えることはできるとするプラタゴラスのやりとり。討論をしていくうちにいつの間にか、その主張が入れ替わっていることに気づくのですが…(何それ!って感じですよね)。「読み終えた瞬間にサイダーみたいにシュワっと抜けてしまう」感覚だったそう。しかも「どこで主張が入れ替わったのか読み返してみても、わからない」って(笑)。この本は、ダヴィンチ4月号のいしいしんじ特集でも紹介されています(よっぽど面白かったのかな?)。その時のコメントを一部引用。「この本の面白さは徳がどうこうではなくて、そういう人と人の間に生まれるものの面白さだったのかと」。

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)



3冊目は夏目漱石『門』。「夏目漱石だったら何でもいいんだけど…」といいつつ、『門』の書き出しを読むいしいさん。

 宗助(そうすけ)は先刻(さっき)から縁側(えんがわ)へ坐蒲団(ざぶとん)を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐(あぐら)をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。

青空文庫より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/785_14971.html

すると、主人公の姿をステージ上で再現したんでびっくり(笑)。だって、その姿は「あぐらをかいたあと、そのまま後ろへごろん」な状態。「きっと漱石はこういう格好をしていたんでしょうね。じゃないとこんな表現出てこない」って。こういう登場人物の身体の動きというのも読んでて楽しくなる理由のひとつだそうです(いしいさんの作品を読んでると、登場人物の動作がとても印象的だったりします)。

門 (岩波文庫)


話は、いしいさんの作品へとシフト。新作『みずうみ』は『文藝』で連載していたものだけど、「連載」というスタイルが向いてなかったのか途中で連載を止めたそうなのです。『みずうみ』第一章は、その連載分とのこと。そして、その後、いしいさんの身近な人の不幸が立て続けにあったそう。その後書いた第二章は、自分でも「何を書いてるんだろう」「どうなるのか」わからなかったとか。でも、第一章も第二章も自分の身体から出てきたもの。書いている時は、「1年前かどこかとの「化学反応」であるし、身体を通じて1つのもの(文章)として繋がっている」。それが第三章になると「しんじ、そのこ、浅草、キューバ、ニューヨーク、ボニー」の名が自然と出てきたのだそう。では『みずうみ』は、どんな話なのか考えると、それは「人が死ぬ」ということがテーマだったと。「人が死んだ」ことで、自分が「欠けていく」感じが、「こだまのようにかえってくる」気持ち。「ショックを乗り越えられない」時、「小説を書かないと『死』をいいかげんにうけながしてしまいそうだった」と…。また、「生きて死ぬまでに(生きているうちに)、これが出来て良かった」ともおっしゃっていました。


今月初めに行われた早稲田大学の講演会では「いしいさんの作品は嘘か本当かわからない」という質問があったそうです。いしいさんは「言葉が表しているものはホントのこと」だと思っているとのこと。「自分のことしか書けない=私小説」「深い意味で本当のこと」しか書けない(書かない)そうです。『ぶらんこ乗り』を書いた時は、「弟」(登場人物)のようだった。「弟」は自分だった。『トリツカレ男』は、奥さん(園子さん)に出会った時の話。『クーツェ』を書いて、物語を作ってもいいんだと感じ、放物線を描くようなものを書きたい時は『プラネタリウムのふたご』になった。自分の意識にドロドロ入っていくものをイメージした時は『ポーの話』に…。


波や山を見て、「わ〜すごい」と感じるのは、そのものを見て感じるのでなく「見る」という行為。その存在の圧倒感に「すごい」と言っているんだと。すごいものは世の中にすでにあるのに「わざわざ人が無駄なことをやる(作る)から面白い」。「人と想い(感覚?)を共有、わかりあえるとは思わないけれど、もしかしたらわかってもらえるかも!という思いで小説を書いている」そうです(メモ書きから起こしてるので実際の表現とは全て同じではないです、はい)。小説家が書いたものを、読み手がその後に続いて読む。読み手はわからないなりに、小説を読み終わった時、自然と「何かが起きた」感覚になっている。それが古典の力強さ。「わからないものの中にも本物がある」んだと。


休憩をはさみ、後半は質疑応答に。まず、店長からの質問。救ってくれた恩人=園子さんとの出会いについてでした。慎重に言葉選びをするいしいさんに、会場は静まりかえったようでした。「乱れれば乱れるほど生きてる感じがする」と言った時、「あ〜わかるわ〜」と思ってしまった私。「だから、どんどん自分でつぶしていた」「どれくらいつぶしても『自分』でいられるか」。


「4歳のころからどんどん歪んでいた」とも。4歳の時書いた『たいふう』がまわりの大人に受け、つぎつぎと書いていくうち10作目くらいからどんどんウケるために書いていたそう。それからというもの、34才まで「人によろこんでもらおう」と思い生きてきたと。99年の暮れ、心身のバランスを崩し帰省した時、そういえばあの『たいふう』はどこに?とお母さんに聞くと『つづら』を出してきてくれたそう。その中に入っていた自分の作品。「たいふう」は、世の中に対する、自分の素直な思いが表現されていたのを見て「1コだけホンマもんやった」…。その続きが『ぶらんこ乗り』になったそうです。何も、ウケ(反応)を気にせず、「ただ書く」ことに専念した作品。それを書き上げて数日後、落語に行った時、園子さんと出会うことになったとか。


「人間として(何もしなくても)引き取ってくれるんだ」(←引き取ってって(笑))、「そんな人いるんだ!」という驚き。「『他人』がいてくれて良かった」「『他人』というのも素晴らしいんだな」と感じたそうです。いいな、そういう出会い(苦笑)。私は無い物ねだりなのかなぁ。いや、真面目な話、じ〜んと来てしまいました。



その後の質問で、「いしいさんが古典として残るだろう作家(作品)を教えてください(生きている人で)」というのがありました。う〜ん…と悩みつつ、数人教えてくれました(笑)。え〜、今回も長くなってしまったので、本の紹介は次回にします…。