チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人である」

愛知芸術文化センター・小ホールでチェルフィッチュの舞台「わたしたちは無傷な別人である」を観ました。この前書いたように、私はすごく演劇が好きというわけでもなく、逆にちょっと抵抗感もあったりしたので、この舞台が楽しめるかどうか不安だったんですけど、今まで私が演劇で感じていた違和感がまったくなかったです。というか、もっとチェルフィッチュの別の舞台を観たくなりました。舞台を観るというより、アートの一つ、現代美術の作品のひとつといった感じで観ていましたが。


フライヤーによると、この作品は「この時代における「幸福」とは何かというテーマ」とのこと。それを知った時、それは自分が最近いろいろ考えて、しょーもない結論に達したばかりであったので、またかというか(考えるのが辛い時があるので)、そのしょーもない状態が舞台で繰り広げられたら辛いと心配していた。近いことはあったけど露骨ではなかったのでほっとした。いわゆる世間の幸福って何なのかということをずっと考えていた。それとはかけはなれた自分の生活。でも、もしその世間の幸福を得たとしたら、私は幸福と言えるんだろか。はなはだ疑問。さっき「結論に達した」と書いたけど、それは世間の幸福感がどういうものかということの私なりの一方的結論であり、それが正しいとも言っていません。結論出ないよ。考えても考えても…。


舞台に出てくる主婦のような考え方の人が表面的には多いのかなぁと思う。だけど、私は表も裏も暗い方の考えと同じというか…。だから、その考えをあぁやって口に出してくれる人がいて、その点ではすかっとした。でもそれは一瞬で、すぐまたむなしくなったけど。そうそう。座っていた席の後ろにすんごいうるさい男子がいたのだけど、旦那が耳にしたところによると「あの役(不幸な人)って○チガイだよね〜」と話していたという。はぁ…w ま、受け取り方はいろいろあるかもしれませんが、ちょっと驚いた。たぶん、この人は『1Q84 BOOK3』に出てくる牛河のこともキ○ガイと言うだろう。もしくは町田康『告白』の熊太郎にも同じことを感じるかも。待ち時間からず〜っと喋りっぱなしのこの男子。場内が暗くなっても喋りつづけてたので、消えて欲しかったです…(しかも途中でトイレ行くし)。いや、でも普通にこの主婦みたいな考えを真剣にする人だったら、やっぱりキチ○イって思うのかなぁ〜。


舞台の感想に戻ります。チェルフィッチュは動きがある舞台だということを聞いていたので、これを観て「あれ、それほどでも?」と思ったら、今作はとりわけ動作が少なかったらしい。だからか分からないけど、とても言葉がこっちに来ていた感じがする。いままで「舞台を観てて気が散った」というのは、その言葉が聞き取れない時があったから。この舞台に出ていた役者の発声が特に良かったとは言えないけど、なぜか良く聞き取れ、その内容が目の前に浮かぶのでした。舞台なのに。それが面白い。ナレーションで「紙袋をさげています」と言われると、実際に紙袋が下がってなくても、そんな動作をしていなくても、紙袋を下げてる映像が目の前に浮かんだり。そんなのばっかりでしたね。ていうか、3Dテレビよりこっちの方が3Dじゃね?


長くなるので、対談集『コンセプション』を読んでいて感じたことを少し。女性が3人出てくるシーンがありますが、みづきちゃんを誰がやるかはステージ上で決めるというので驚きました。そういわれてみれば、3人が目を見合わせていた時がありました。その瞬間に決まっていたのか。だから緊張感ある感じになってたのかな。途中から「次は誰かしら?」ってこっちもドキドキしてたw


巻末のティム・エッチェルとの対談で、ティムさんが語っていたことが、私が感じたチェルフィッチュの面白さなんだろうなと思ったので、引用してみる。

(前略)…言葉と動きというふたつのトラックをかけながら、どうにかして、その二つをちょっとずつ離していき、緊張関係を生み出そうとしているのが感じられました。この二つのトラックを岡田さんは別々にしようとしていて、そうすると、オーディエンスの方が、どうにかしてその二つの関わりを探そうとするので、そこが面白い。(p.122)

この本、とても面白かったです。自分がなんで今まで観てきた演劇に違和感があったのかがようやく分かったというかw なんか引用したいところだらけだもん。普通に流通してないみたいだけど、ネットで購入出来るみたいです(詳細は下記リンク先参照)。あと、この作品のテキストが早く読みたいな、と思うのでした。たいした感想じゃなくてごめんね。


http://bccks.jp/viewer/31681/1/A/VIEW