森田正馬『自覚と悟りへの道』

新版 自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために

新版 自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために

「神経質を正しく理解し、心の悩みを解決するための森田式生活相談」という帯にひかれて買ってみました。この本は『神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典』と違い、患者と森田の対話が記録されているので、分かりやすいです。分かりやすいというか、自分のこと書かれてるみたい。「あぁ、こういう考え方するする!」みたいな…。それを発見しては凹むといいますか、少しずつ治していくには時間がかかるのなっていうか。以下、気になったところ。

 自分が非の打ちどころのない人間として周囲の人から認められようとすることは、要するに自己中心主義でありまして、そのために自分にたいして気兼ねをし、遠慮しようが、うるさがり面倒がろうが、そんなことはどうでもよいということになりますので、周囲の人から好意を寄せられるはずがないのであります。それと反対に、人を満足させ、人の便利を考え、人を幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられてもしかたがない、というように大胆になれば、初めて人からも愛されるようになり、善人といわれるようにもなるのであります。つまり自分で善人になろうとする理想主義では、私のいう思想の矛盾におちいって、反対の悪人になり、自分が悪人になるつもりでやればかえって善人になるのです。

 ただし、神経質者の場合はひねくれていますから、ちょっと簡単にはゆきません。神経質者の場合は、えらい人になりたい欲望はいっぱいなのだけれども、えらくなりたいあまりにえらい人をまともに見ようとせず、尻目に見ながら劣等感に悩み、その劣等感をなくしようとしてもがき苦しみ、自然の人情に反抗して強迫観念をおこしているのであります。

(中略)あの人は素質がよく、それに症状も軽かったから治ったけれども、自分はそれとはちがう、神経質という先生の診断は間違いであるかもしれない、などとひねくれて考える人はなかなか治らないのであります。治るとか治らぬとかいう言葉にばかありとらわれないで、治って元気になった人の様子を、陰の方からそれとなく眺めていさえすればいいのです。ひねくれるよりその方がいくら安楽であるかわかりません。

また「大疑ありて大悟あり」というように、いろいろと迷い悩み、苦しんだ人でなければ一転はおこりません。生死の問題や人生問題をつきつめて考えたことのない人に、心機一転のおこるはずはありません。ここまでつきつめてくれば、素質ということも関係しますけれども、素質はよくても苦しみ抜いたあとでなければ、心機一転の心境を経験することはできません。
 神経質者の経験する心機一転の普通の場合は、内向的な心が外向的に一転することでありましょう。

私は、心に表裏のある自分自身をそのまま認め、肯定しているのであります。私はただ、自分の心の事実を認めるだけであって"こうなくてはならない"とかいう考えはみじんもないのであります。それが"自覚"というものであると思っています。

む〜、耳が痛い言葉だらけだ…。これも何度も読み返したい本の仲間入りとなりました。