思想の矛盾

自分が矛盾だらけな人間なので、森田療法の基本「思想の矛盾」を調べてみた。以下、『神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典』より引用。

思想の矛盾
 思想の矛盾とは、こうありたい、こうあらねばならないと思想することと、事実、すなわちその予想に対する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名づけたものである。
 そもそも思想というものは、事実の記述、説明もしくは推理であり、観念は事物の名目もしくは符牒にほかならない。また、たとえば鏡に映る影のようなものである。この映像が観念、もしくは思想である。すなわち観念ないし思想は、つねにそのままただちに実体もしくは事実ではない。
 人びとがこの観念と実体との相違を知らず、思想によって事実を作り、もしくは事実をやりくりして変化させようとするために、私のいう思想の矛盾がしばしば起こるのである。禅でいう「悪智、般若心経にいう「顛倒夢想」は、こうした関係から起こるといってよいだろうと思う。たとえばわれわれは神通遊化して、空中を飛行することができると思想することはできる。すなわち、夢ではいつでもこれを実験することができる。しかしそれは夢想である。事実ではない、などというようなものである。
(中略)たとえば皮膚を差して痛みを感じ、インフルエンザ毒に感染して身体に違和感を感じるなどのような、刺激と反応、すなわち客観と主観とはつねにたがいに一致し、母に親しむ感情と母を愛敬すべきという智識や、物の距離を理解することとそれに対する行動の体得とは、みなつねに必ず切り離すことができない。けれども、その一方を離れて一方にのみ偏向、発展するとき、あるいは一方に苦悩の執着を起こし、一方には思想の迷誤を重ね、禅でいうところの悪智となり、ますます迷妄に深入りするようになるものである。私が思うには、いわゆる「悟り」とはこの迷誤を打破し、外界と自我、客観と主観、感情と智識とが相一致し、事実そのままになり、言説を離れて両者の別を自覚しないところにあるのではないか。