純な心

わきあがってきた感情を押し殺すことなく、自然体でいてよし、って感じ? 良い子ぶるのは自然じゃなかったから心身のバランスが崩れて来たんだろうなぁ(だから爆発しちゃって…)。森田療法のキーワード「純な心」を思い出し、持っている本を開いてみた。

自分の心からわきあがる純粋な気持ちを受けとめる
 ある事実を前に、まずわきあがるのは、喜び、悲しみ、不安、恐怖、憎しみ、憐憫といったさまざまな感情です。こうした心の動きを森田正馬は「純な心」と呼び、それを大事にすることを説きました。
 心地よい感情だけでなく、嫌悪感や悔しさなど、不快な気持ちも含めたすべての感情が「純な心」です。
 自分の「純な心」をきちんと受け止めることができれば、人の気持ちに対しても、共感をもてるようになるでしょう。そうしたことが、人間関係や行動を変えていくのです。
「純な心」を見失うと観念に苦しむ
 困った現実を前にしてわきあがる、「ああ、困った」という素直な気持ちが「純な心」です。「ああすべきだった」「こうすればよかったのか」など、あれこれ考えはじめると、いつの間にか純な心は見失われ、あとに残った「〜すべき」という観念に苦しめられることになってしまいます。
 ありのままの感情を受け止めるということは、等身大の自分のまま生きていくことにつながります。「純な心」を体得することによって、自然で無理のない生き方ができるようになるのです。
北西憲二監修『森田療法のすべてがわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)』P50より引用

いちばん分かりやすい解説かな…。以下は本家、森田先生のお言葉。

純な心とはわれわれ本然の感情であって、この感情の厳然たる事実をいたずらに否定したり、弥縫(びほう)したりしないことである。われわれはまずこの事実を本として発展するのであって、善悪、是非の標準を定めて、その上でそれに則るという理想主義でなく、また自分の気分を満足させるという気分本位でもない。(中略)
 また、たとえばわれわれは毛嫌いといって、人を憎悪することがある。このときにも、この心のままから出発すれば、自ら不合理な自分の心の悪を自覚するとともに、その人に対する憐憫の情を起こし、いつの間にかしだいにその人の美点が発見されるようになる。
 それと反対に、人を愛さなければならない、人を憎んではならないという鋳型に自分を当てはめようとするときには、自分の自然の心と理想の間に葛藤が起こって、自ら努力と苦痛を感じ、かえってその人の欠点、悪所がしだいに目につくようになるのである。
森田正馬著『神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典』P146-147

む、むずかしい(苦笑)。つーか、反省したい気分。しかし、この本なかなか読み進められないのよね…。