町田康『どつぼ超然』読了

どつぼ超然
どつぼ超然町田 康

毎日新聞社 2010-10-15
売り上げランキング : 8836

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
人間小唄 (100周年書き下ろし) あなたにあえてよかった―テースト・オブ・苦虫〈8〉 猫とねずみのともぐらし (おはなしのたからばこ) 犬とチャーハンのすきま 膝のうえのともだち


ヒィ〜、良かったよ、良かった…。これは『東京飄然』の続編ですが、『東京〜』よりさらに面白く、かつ、人間ってさぁ、人生ってさぁと考えさせられることも多く、私が日頃ココロの中でもやもやくさくさ考えてることをワァ〜っと曝け出してくれて(るようで)スカッと! そして超然…。


ラストの感じは『人間小唄』と同じよう…というか、私がファンになるきっかけとなった『きれぎれ』のような高揚感があり、マーチダ先生はやっぱこれよね!とコーフンした。大雑把な感想は以上です。いつも以上に適当ですが、こんなことしか書けないです。いや、ホントに面白くて…。面白いところ紹介してたらキリがないのでできないけど、気になったところを引用(あんま面白いってところじゃないかも…)。未読な人はご注意ください。

 いま死を前にして思うのは、人生とは選択の連続である、ということである。運とかチャンスとかいろいろ言うが、結局のところ、いまある自分自身というのは、自分自身の選択の結果であると思う。
 進学、就職、恋愛、結婚。すべて自分自身で選択したことで、東大出のエリートと無職のシャブ中に同時に求愛され、東大出を選ぶかシャブ中を選ぶかは自身の選択なら、その選択の結果を引き受けるのも自分なのである。(p.81)

 そう考えて、掲示を読み、「世の中ってそんなもんだよね」と呟いた。
 期待は必ず裏切られる。思惑はあらぬ方にそれ、夢はかならず破壊せられる。誤解。誤読。主体的に行動するなんて言う。馬鹿か? 主体的な行動などこの世にない。まっすぐ歩こうとしても道が曲がっているのだ。ソクハイが疾走するのだ。酔漢がぶつかってくるのだ。私たちはつねに何かを企図し、企図したことが別のことに変幻していくその軌跡を辿っているのだ。それが生きるということなのだ。
(p.264)

 だから余は死ぬ必要などなかった。余は流されるままに、ただダラダラと生きればよいのだ。よし。じゃあ、生きてやろうじゃないか。生き抜いてやろうじゃないか。この厳粛なまでにバカバカしく間抜けな大失敗の連続である人間の一生を。わあああああああああああああああっ。
 そう。叫び出したいのを堪えて余は決意していたのである。
「生きる。生きてこます。そのためには、そう。とにかく先へ進むことだ」
(p.265)

「普通というものが実に愚劣なものであることも知らずに普通を振りかざして偉そうにするのはやめろ、クソ野郎。普通の市民の普通の感覚が世の中を腐らせているということを、いい加減にわかれ、ぼけ野郎ども。なにが国民目線だ。そんなものが存在してたまるかコンコンチキ。コンコンチキチーンコンチキチーン、と余がこうやって祇園祭の山車のうえの人形の物まねをしたら、異常なことをするといって罵るのだろう。ばかが。余がそうするのにはいろんな理由があるんだよ。それを普通という目の粗いザルからこぼれるといって、嘲笑したり、迫害したりして、それが正義だと思っているお前らに死を。と言いつつ軍服着て自動小銃もってまえの家に明日行くからヨロシク。…(以下略)
(p.289)

 どんどんどんどん、普通にまみれていく。
 そしてその普通が異次元に軟膏として注入され、素晴らしい芸術作品となる。しかし、その先には、さらにもの凄いブラックホールのような普通がある。芸術が普通の虚無にのみこまれる。
 ああああああああっ。
 あああああああああっ。
 あああああああああああああああああっ。
 余は、余はっ。いま初めて悟った。
 これこそが、ただ、一さいは過ぎて行く、ということだったのだ。
 余は、いま初めて、一さいが過ぎて行くのを、全身の毛穴で感じている。しみそばかすも関係ない。
(p.305)