町田康『告白』やっとこ読了

告白 (中公文庫)
告白 (中公文庫)
おすすめ平均
stars言葉=自分を持て余した者
stars素晴らしい
stars日本文学史上最高の作品
stars「お笑い」よりおもしろい
starsずっと読んでいたい

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『告白』は発売当時に買ってました。しかも私が持っているのは発売後行われたサイン会でもらったサイン本。なのになんで5年も積読本になっていたか…というと、町田康の作品が好きだからです。好きなので、この評判の良い、町田康の最高傑作と言われる本を読んで、もし「自称ファン」wの私が理解出来なかったら(楽しめなかったら)なんかしょんぼりするよなぁという無駄な妄想(苦笑)。どれも好きなんですよ、好きなんですけど、唯一読み通せなかったものに『パンク侍、斬られて候』があります…。話はおもろしかったんです。だけど(これは町田康に限らないのだけど)登場人物の名前が覚えられない(笑)。特に海外作家の作品がダメでして…。町田康の作品に出てくる登場人物のネーミングは個性的だから忘れるはずはないんですけどねぇ。頭の働きがどうかしてたんだろか…。なので、このかなりの長編の『告白』を名前の覚えられない私が読み通せるだろうか、という(苦笑)。


ですが、重い腰をあげたきっかけになったのは、先日町田康トークショーに行って『告白』についても少し話されていたのを聞き、あぁ読みたい!って思ったのと、朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」でなんと『告白』が第三位になっていたこと! そして、そこで『告白』の感想文を募集していたのです。が、なんやかんやで締め切りまでには間に合わなかったけど、ここで読まなかったら読む機会をまた逃す!と思って、本を開きました。実は、これが初めてでもなかったんです。数頁は読んでいました。そして、面白い…とも思ったのですが、あまりにも、あまりにも熊太郎に自分を見てしまい、読み進めるのが辛いと感じて躊躇したこと数回…。でも、正味、3日間で読めました。

http://book.asahi.com/zeronen/TKY201004050129.html
http://book.asahi.com/zeronen/TKY201004210239.html


以下、文章からの引用が多々ありますので、読みたくない方はご注意を。。

最初に熊太郎に自分を見てしまったのは、それまで両親やまわりの大人が言うことに従ってきてそれが全てだと思っていたのに、ある日、人にからかわれたりして自分の位置を見たときのあの感覚…。親の言うこと間違ってるじゃん!というあの感覚。それが「初めて世界に触れた」ことになるのですが、今にして思えばその世界はずっと曇り空。本の中にあった「薄墨」の中を生きてるような感覚。何かが(人と)違う。理解されない言語。生きにくい世界がそこから始まった、というあの感じ。(p10〜11 ※単行本での頁数)熊太郎の話を読むことは、自分のこの先を見てしまうようで、読み進めるのが少し辛かった。それでも、町田康独特の、まるで寄席に来ているかのように噺に引き込まれていって、心苦しいながらも新しい頁をめくる自分がいました。そうそう、正味の節ちゃんなどのキャラクターが面白くて、辛いばかりではなかったのが救いです(笑)。


にしても、何をやっても空回りな熊太郎。でも、何かをする前にちゃんと考えている。そして行動する。それでも、思うようには進まない。言葉が理解されない。むしろ誤解され、どんどん悪い方へ進んでしまう。なんかいつも馬鹿にされる。次こそ、次こそ…と博打にもハマる。でも、うまくいかない。「ほんのちょっとの駒の狂い」(p.410)がどんどん悪循環。自分は間違ってないのに…。むしろ正義ではないか。え、世の中に正義なんてない?

 そのことを知った熊太郎はこれまで漠然と、社会には社会正義というものがあって、その正義に則って社会は運営されていると信じ、のこのこやってきて訴えるなどという餓鬼同然、小児同然の自分の間抜けぶりがやりきれないほどに情けなかったのである。
 熊太郎は、何度も何度も、俺はなんたらあほであったか。と思った。(p.570)

でも、やっぱりこうも思うのだ。真の正義のためには。

「思弁と言語と世界が虚無において直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。考えてみれば俺はこれまでの人生のいろんな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。ところがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらの地点が本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。ということはこんなことをしないですんだということで、俺はいま正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない」
 熊太郎はそう言って刀を、生後四十日のはる江に突きたてた。
 熊太郎は無明の闇のなかを駆けていた。(p.608) ※単行本での頁数です

ここを乗り越えれば、きっと良いことがある。良いこと、というのでもなく、何かが変わるだろうと、私も思っていたことがある。それでも、何も変わらなかった。変えられなかった時のむなしさ。悔しさ。自己嫌悪。願えば叶うなんて無責任な。でも、頭の隅でそれを期待してたあさはかな自分。いまだって、どっかで期待している自分。

 あまりにもトラが銭、銭、とうるさいのにむかついたある人がトラに嘘を教えた。
 その人はトラに、「願いというものはそれを常時、口にしていればいつかは叶うものだよ」と教えたのである。

トラは結局「銭、銭」というようになってしまったのですが(苦笑)、今の流行の歌でたびたび歌われている「願えば夢は叶う」的な歌詞のなんて虚無なことと、改めて感じたりもします。こんな世の中に対する違和感。そんな時代に合わせられない不器用な自分(合わしたくないのだが)。自分でもなんでこうなるのかはわかってる。

つまり自分の言葉は相手に通じていないのではないか。相手は本当は別のことを言いたいのではないか、なんて考えていつも焦っているから、ついまともな判断ができなくなって、気がついたら俺が損な役割を負わされている。しかしそんなことを考えない横着な奴はいつも高みの見物だ。後は、虚栄心。ここで断ったら格好悪いかな、とか、普段、いい格好をしている手前もあるしな、とかそんなことを考えている。自分の行動に論理的な整合性を求めすぎるのだ。みな、そんなことはないがしろにして楽に生きている。けど俺は苦しく生きている。いまもそうだ。この兄ちゃんにどつかれる。(p.302)

 熊太郎はそんなことをしたら、「はは、あいつあんなもん手に入れていかにも満足ちゅう体で喜んでけつかるわ。はは、阿呆ちゃう?」と思われると思った。
「自足しきった子豚のよう」と批判されると思った。
 しかし、誰がそんなことを思うだろうか。他人の内面をそこまで仔細に観察するほど人間は世間は暇ではなく、悲嘆にくれる人間がいれば、「気の毒だな」と思うか、「はは、おもろ」と思うだけだし、希望が叶って喜んでいる人間を見れば、「よかったな」と思うか、「羨ましい」と思うだけである。
 ということはそういうことを思うのは熊太郎本人ということで、つまりは熊太郎は自分で自分のことを「阿呆ちゃう?」と思うのを恐れていたのであって、(以下略)(p.483)

こんな文章読むと、自分の今後を考えてしまう…。私だって、そんなことわかってる。でも…。熊太郎が獅子頭の中で思ったことがたまらない。

 熊太郎は自分の皮の内側に、萎縮してひからびた自分がいて、その自分が自分の皮の裏側をみているような気分であった。しかもその皮はぼろぼろで、本来、思弁、思想と一筋につながっているべき発生装置の位置がずれていて、思うことをうまく言えなかったり、皮と本然の自分の間に奇妙な隙間があって、自分の行動が自分の行動のように認識できなかったりする一方で、逆にいろんなところに裂け目、破れ目があり、意識の上に登ってこない心の心が考えたことが穴から洩れ、また、人間のなかに本来ある、やる気、向上心、勇気みたいなものもまた、穴からどんどん抜けてとまらぬのであった。(p.534)

p.531での話は長いので省略しましたが、上はそれを受けてのことなんですけど…531頁での熊太郎の思いが、耳が痛くなるほどっていうか、耳をふさぎたくなるほどだった。そして熊太郎は以前、こんなことを思った。

「どうせ俺はひとり殺しとんね、ここで死んでも構うことあるかい。かかってこんかい、口ぼさのあほんだら」
叫んで熊太郎は内心で、あっ、と思った。熊太郎はいまの瞬間、自分の思想と言語が合一したことを知ったのである。思ったことがそのままダイレクトに言葉になった幸福感に熊太郎は酔った。しかし熊太郎はこうも思った。
 俺の思想と言語が合一するとき俺は死ぬる。滅亡する。そもそもは横溢する暴力の気配を厭悪する感情に端を発した騒動であった。それが結果的に暴力を生む。豆を煮るのに豆殻を焚く。暴力の気配から逃れるために暴力を行使、その暴力がさらに暴力を生む。因果なことだ。(p.157)

そして、後半、ふと、この感覚を思い出す。そこで熊太郎はどういう行動をし、どう感じ、そして何を言ったか。これはラストを読んでくださいな。熊太郎のラストを知ってしまった自分は取り残された感じ。熊太郎は、一応のラストを迎えた。しかし、私はまだここに物体として存在している。これからどうやって生きていこう。どうしたらいいんだろうと、また自分の目の前に広がる薄墨の世界へ戻らざるを得ないのでした。いや、在ればいいのか、在るだけで。


しっかし人生は不条理だな。つくづく思う。先日のトークショー町田康が、民話などに不条理なものが多いけど、「(それらを)受け入れることで人間としての範囲が広がる」「そういう読書体験は必要」と言ったことを思い出した。まさに、今、その体験をさせてもらったことになりますね。ただ、私には不条理なこの世の中を楽しめる余裕がない。不条理だなと感じることは本当に多々ある。それを「受け入れている」かどうかは微妙。そういう余裕が少しでも出てきたら、もっともっと町田康の作品が楽しめるのだと思う。その日まで頑張りたいなぁと妄想(頑張れるかなぁ…w)。


5年も積読本にしてもったいなかったって読後思いました。いていうか、単純に楽しめて良かった、とも。あぁ、これで晴れて自称「町田康ファン」と言える?w でも長編だとまだ『宿屋めぐり』もありますか…。『告白』は私が心配していた「名前」が覚えやすかったので良かったです。あれですかね、人物名書き出して読んだ方がいいんですかね、私は(苦笑)。脳の衰えに虚脱。


☆サイン本、大切にします〜