『文學界』(カフカ式練習帳 第一回)『群像』(未明の闘争 第三回)読了

最近保坂氏の本(や連載)のことばっか書いてて、自分でも怖い…w。以下、ちょっとしたメモ。


『未明の闘争』第三回から。

 私は死んでもし霊となってしばらくこの世界にとどまっているようなことがあったとしたら、誰かの肉体を借りて、もう一度だけ、大人のようでなく子どもに戻って思いっきり泣きたい、ということは霊となった私が借りる体は子どもの体ということになるのだろうか。大人の体だったら、見ず知らずの人の体だったとしても体につもった時間がきっと重すぎる。
 しかしそんな直接的なことは起こらない。チェーホフの『学生』も、ペテロは最初、焚火に手をかざして当たるという姿によって、農婦のワシリーサだけでなく学生自身が自分と重ね合わせていた。しかし終わりには、ペテロを身近に感じたのは学生でなくワシリーサだった。ペテロとワシリーサという二人を重ね合わせて見る学生がいることによって、ペテロとワシリーサは重なり合った。ワシリーサがペテロに直接重なったのではない。『学生』は文庫で六ページぐらいしかないが、その短かさの中でそういうズレが起こった。
 人は死んで霊となってこの世界にとどまるわけではないということだ。(以下略)

 だいたい人が意志するとはどういうことなのか。人が意志するその意志のもとはどこから来るのか。「考えるから」というなら、その考えはどこから来るのか。

 日常の雑事をする。約束の時間に約束の場所に行く。何日後までに○○をする。そのためには今日中にこれをして明日はこれをして明後日にこれをして……という風にスケジュールを立て、そのとおりに進める。それらをできることを呆けていないというわけだが、そこで実行される「考え」は本来考えなければならないことから考えを遠ざけるための作業でしかない。

 呆けていないというのは呆けていない人同士が想定したルールに沿った作業をすることであって、そのルールからのはみ出し方は千差万別で呆けていない人にとっては厄介でしょうがないが、「考え」はそこにある。考えるとき人は自分の意志によって考えているのではなく、意志を離れたものによって考えさせられている。

今回ちらりと出て来た文学作品は、チェーホフ『学生』と北杜夫『楡家の人びと』。以下は、新連載『カフカ式練習帳』第一回よりメモ。


メモっていうか個人的感想だけど、こっちの方が『未明の闘争』よりも読みやすいかなぁ…と。どこが?って言われると困るんだけどw、振り返って読む回数が少ない気が。『未明の闘争』の方では私はとかく「これってあれに書いてあったこと?」と思う箇所がたくさんありそれについてまた考えたり調べたりしてたんだけど、これに関してはそういうことが(初回では)あまりないな〜と。普通に「早く続きが読みたい!」と思っただけで(笑)。「あぁ…」とか「へぇ…」と思ったところを一部メモ。

──このあいだ久しぶりに実家に帰って自分の部屋でぼおっとしてたら、いつか両親が死んでこの家に誰も住んでいなくなって、そうして私が一人で今よりずっと静寂に包まれたこの家の中でレコードもかけず、本も読まずに今と同じようなことをしている日がきっと本当に来るんだと思ったの。そうしたら何とも言えない幸福な気分に襲われたの。

(前略)誰かが恋しくて恋しくてどうしようもないあの気持ちがまさか今より年上になった自分に生まれるなんて、それを知らない中学生は考えもしなかった。人は大人になるにしたがって自立して誰も頼らなくなる、そうではなかったなんて。
 誰かが恋しくてどうしようもない気持ちから人はいったいいつ解放されるのか、今五十歳の彼はそのような時が本当にくるとは考えなくなっていた。

この連載で出て来た作家名は放哉(尾崎放哉)で「マッチの棒で耳かいて暮れてる」が引用されてました。というか「実家の静寂」の話はどうなったんだ。気になる〜。とりあえず店頭に出てる『文學界』最新号でもチェックしに行こうかしら…w