保坂和志『アウトブリード』読書メモ2

保坂和志の連載『未明の闘争』(第二回)に出て来た、ベケットの「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの。」について、『アウトブリード』で既にふれられていたことに気づいたので引用しておく。

 ベケットは「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの」と書いた。
 闇のなかでたった一人で仰向けになっている人物が、声も記憶もイメージもすべてを自分の伴侶として想像している『伴侶』という小説の中で書かれているこの一節は、もちろん言葉遊びなんかではない。センテンスの構造自体は「オージービーフを買いに行く、おつかいを言いつかった子ども」と同じで、特別難解というわけではない。
「すべてを自分の伴侶として想像する(A)、想像された(B)、想像するもの(C)」──(A)は通常の「想像する」という動詞であり、(B)はわたしによって「想像された」であり、(C)は想像するという行為の主体「想像するもの」だ。意味を言うならおそらく「『すべてを自分の伴侶』として想像(A)しているのは、[想像するもの(C)であるところのわたしによって]を想像された(B)、想像するもの(C)である」ということになるだろう。(中略)
そしてこの"想像された想像するもの"であるところの"わたし"というのを突き詰めていくと、それは"想像された(具体的に指し示すことのできない)何者か"ということにしかならない。僕は言葉の遊びや論理の遊びをしているわけではない。"わたし"を解析するとそういうことになる。


『アウトブリード』P.138-139「わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし──。」より

連載からも少し引用しておく。えっと、連載は「小説」です、念のため…。

(前略)このセンテンスには軸がないというか底がない。誰かによって想像された者である自分が想像する者となって想像している。その誰かもまた他の誰かによって想像された者が想像する者となって想像している。という際限のない遡行が繰り返されるのだが、その遡行の途中に自分自身も一回か二回登場する。しかし自分自身も特別な位置づけを主張できるわけでなく、他の誰かと同じ遡行の通過点でしかない。
 あるいは、想像している自分によって想像された自分が想像する者になっているという循環とも考えられる。あるいは、自分の伴侶によって想像された自分が想像する者となって伴侶を想像しているとも考えられる。あとの場合には、自分と伴侶の二つが重心となって歪んで複雑な回転運動をしている。(後略)


『群像』で連載中:『未明の闘争』(第二回)より