保坂和志『未明の闘争』読書メモ

『群像』で連載が始まった保坂和志の『未明の闘争』。もう3回目を迎えてますが、私は2回目までしか読んでません。というのも、図書館で『群像』を借りているから(最新号は借りられない)。毎回の掲載ページ数は8ページなので、これは長い連載になるのかしら…と思ったり。とりあえず、2回目までで気になったところを少しだけメモ。


【第一回】

 ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通り雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。

上は冒頭。最後の「私は」の「は」はどこにかかってるんだ?っていうか、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」という一文が頭から離れず、そこだけを何回も読んでしまった。一瞬誤植かと思ったけど、そんなわけないしさw。その後も「私は」という文章は多いのだけど、それはあんまり気にならなかったです。とにかく冒頭のこれ(「私は」)のインパクトが強かったから。で、読んでくうちに、おぼろげながら(説明出来ないけど)頭ん中では「あぁ、あの最初の「私は」は、ああいうこと?」と感じたりもしましたが、確信はない(苦笑)。他、気になった文章のほんの一部。

一時間か二時間後に目が覚めると、眠っていたあいだも私は泣いて顔が涙でぐしゃぐしゃだった。夢は何も見なかったのに、悲しみだけが眠らずにいたということか。

あれを笑って見ていた自分、チャーちゃんが死ぬなんて考えもしなかった自分、この世界に死があることなんか本気にしていなかった自分、毎朝とてもすがすがしい気分で目覚めていた自分、私はそういう自分がかつて確かにいたのだった。


【第二回】

 SMとはこんなにガサツなものなのか。しかし痛さというのは何かではあった。じんじん痛いそこには確かに自分の皮膚がある。体かどうかわからないが、確かに皮膚があった。

 その感じだ。もし仮りに人間や動物に霊があるとしても、霊だけでは世界と接することが出来ない。母猫の舌でなめられるための体、あるいは皮膚が必要なのだ。体がなければ泣きたくても泣くことができない。

他、ベケットの「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの。」というセンテンスについて、チェーホフ『学生』からの記述が気になりましたが、引用すると長くなるので省略。面白くて(わけわかんなくて)何度も読んでしまったよ。次が楽しみ。

B002QUQNIA群像 2009年 11月号 [雑誌]
講談社 2009-10-07

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☆第一回収録

B002UE1A80群像 2009年 12月号 [雑誌]
講談社 2009-11-07

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☆第二回収録