保坂和志『アウトブリード』読書メモ1

今、保坂和志の『アウトブリード』を読んでるのですが、ちまちま読んでるもので、読了出来る気配がないのと(苦笑)、いろいろ付箋貼ったところもあるし、今まで読んだところで少しメモって(引用して)おこうかな、と。ちょいと前に出版されたものなので、書かれたネタが古いのがなんともいえない雰囲気があります…(『NIGHT HEAD』とか!w 懐かしいナ…)。

 言葉というのは、とても不完全でありながらも、その中に生きてその中で思考している人間にとって、万物の書物を書くに足るほどの、世界や宇宙と同じほどの大きさや広がりや深さがあるのだし、人間はそこから決して出られないのだ──という、いわば絶望の中での居直りを希望とするしかないような認識が、メタフィクションを支えるものだった。とぼくは思う。(人間の肯定 P.25『文藝』1998年春号 特集「90年代の黙示録」)

「人間の感覚はほかの動物と同じように、自分が個体として環境に適応していく必要性として発達してきたものであって、世界の実体を知るために発達してきたわけではない。同様に、理性も大部分は環境に適応する能力の一環として発達してきた。だから素朴文学趣味の好む<等身大の私>などいくら駆使してみても、環境適応性の次元でしか世界を把握することはできない。本当に世界の実体を知りたいと思うのなら、<私>の次元をいったん切り捨てて、世界の法則や掟を知ることに喜びを見いだしなさい」(羽生→理数→小説 p.29『新潮』1997年8月号)

 これは小説を読むときも同じで、ぼくは読みはじめた小説をほとんど読み通したことがない。いわゆる「おもしろい読み物」でもぼくはまず間違いなく飽きて放り出す。おもしろいと言われているものはパターンが同じで、そのパターンの同じことに飽きる。よく知っている波乱の展開にも飽きるし、よく知っているセンチメンタリズムにも飽きるし、よく知っている悲しみにも飽きる。よく知っているものには必ず飽きる。作家はほとんどの場合、よく知っていることに鈍感すぎる。そして読み手はそれに媚びてよく知っていないふりにつき合う。
 だからぼくの読む気が持続するのは、「よく知っていない何か」が書かれているときだけなのだが、「よく知っていない何か」はじつは単純におもしろいと感じることができない。不慣れなものは感じ方がわからないものなのだ。しかし、それに戸惑いながらそれでも最後の一行にごくを導く何かが感じられるもの、ぼくにとって小説とはそういうもので、ぼくはそういう小説しか読み通さない。「よく知っていない何か」は、いつも特異なディスクールによって語られている。(「よく知っていない何か」p43 「ブックTHE 文藝」1993年3月刊)

 個別(個人)と普遍(一般)は絶対に相容れない(ここでの個別・個人とはイデオロギーから自由な人間のことだ)。人(一般)は誰か(個人)の思考や表現を、意味や論理として理解することはできない。人は誰かの思考や表現を、言語の占有として認めることしかできない。(作家固有の言葉の運動を発見するライブ感覚 p.84 「文學界」1997年6月号 石川忠司現代思想パンク仕様』書評)

88頁まではこんな感じ…。他にもチェックしてたとこあったんだけど、どれも似たような言葉(文章)だったので(上の引用とダブるので)。私はそこばっかり気になるんだなぁ〜w。

アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
河出書房新社 2003-04
売り上げランキング : 330261

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
“私”という演算 (中公文庫) 途方に暮れて、人生論 世界を肯定する哲学 (ちくま新書) 残響 (中公文庫) 言葉の外へ