保坂和志『三十歳までなんか生きるな」と思っていた』読了
「三十歳までなんか生きるな」と思っていた | |
おすすめ平均 言論公表の社会性をなめている とにかく元気が湧いてくる。 おもしろいが 少しバラバラ 文学はサマライズすることなんか出来ないし、だからイイ 忘れていた記憶がドッとよみがえってきた・・・エッセイの魅力、再認識 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
率直な感想は、保坂さんはちょっとひねくれた人だなぁwというのと、文章がいろんな方面に発展していくのが私には面白いというか。というのも、私自身が、話していたり書いたりしていて、その書いたことによりまた新たな考えが生まれるものだから、こうやってどんどん何が言いたいかわからなくなる日記になっているわけで、その話の飛び方が(恐れ多くもw)似てるなぁと感じたからです。後半はちょっと、フロイトなどの文章の引用が多くなり私にはちょっと解釈が難しかったのだけど、全般的にふんふん、へぇ、ほぅ〜といった具合に楽しめました、頭を使いながら(ぼけ防止になりそう)。
この本を買う前に『世界を肯定する哲学』を読み始めたんだけど、なんかぼーっとしちゃいまして(苦笑)。で、本屋さんでこの本見たらとても分かりやすそうだったのでまずこっちから読もうと(出版は『世界を〜』の方が先)。で、読み終わってからあらためて『世界を〜』を見てみたら、はは〜ん…って、前よりは少し理解度がアップしてるような気がします。
『三十歳まで〜』から気になった部分を引用。
山手線でも中央線でも私鉄の電車でも、窓を開けるような気温ではないのに窓が大きく開けられたまま走っていることがある。たとえば、五月頃の昼間蒸し蒸ししていた日の夕方とか夜とか。私は、「この電車は誰かが開けた窓を、その後誰も閉めないまま、三時間も四時間も走っているんだなあ」と思う。東京の電車はみんなたいてい十分か二十分ぐらいしか乗らないから、暑くもないのに窓が開けられていても少し我慢していれば自分が降りる駅に着いてしまう。だからわざわざ自分が窓なんか閉めなくてもいい。
だから、開けられてそのままになっている窓が私には、本質的に自分のことにしか関心のない、周囲に対する冷淡さの形象化のように見えてしまうのだ。会社とか役所とかが、勤めを通じて人が無関心で冷淡になることを教育する機関だと感じるのは私の偏見だろうか。
「哲学エッセイ」だ、とか言っていて(ま、私が無理矢理ジャンルに入れただけですけど)、ここを引用するな?って感じですか?(汗)。正直、この部分がいちばん印象に残ってる。なんでかって、同じことを、バスに乗りながら、無防備に開いた小窓から風をうけながら感じたことがあるから。このバスはたぶん終点までこのままだ。だけど、そのまままた同じバスが循環するのは分かってる。きっと誰かが開けたっきりきっと夜まで無駄に空き、乾燥した風を車内に送り続けるんだろうな、とか考えていたらせつなくなった。
他の、「らしい」ところを少し引用しましょうか(苦笑)…
"命” "生きていること"といったことは、総体的にも根源的にも説明しきれないことなのだから、釈然としないこと・不可解なことをどんどん引き寄せる方向で考えていかなければならないのではないか。(p142)
では「もっと大事なこと」とは何か? というと、「人間は自分に与えられた状況を動かしがたいものと感じる特性を持っている」ということだ。自分に与えられた状況の中でも最も動かしがたいと感じられることが、「自分がいまこうして生きている」ということであって、「自分が生まれていない可能性」というのは、そこを脅かす。(p146)
人が生まれてくるための受精の瞬間は偶然の極致だし、親はこの私でなくても自分たちの子どもでありさえすれば誰でもよかった。しかし、そのように偶然からはじまったものが時間の厚みによって、取り換えが不可能なものになる。現に生きている私たちが見なければいけないのは、この時間の厚みであって、はじまりの偶然ではない(p153)
全部、第3章の「冷淡さの連鎖」からの引用になってしまいました。特に意味はないんですが(苦笑)。ここに挙げたのはちょっと硬めの文章だけど、エピソード自体はとてもおもしろおかしく書かれているのでかなりツボでしたけど(キャンプファイヤーのところとか)。いま、まだ『世界を肯定する哲学』を読んでいるところ。彼の書く小説を読んでみたいと思って本を買ったのに、やっぱり私は(ジャンル的に)小説よりエッセイ、それも哲学風味なものが好きらしく、保坂さんの本も「小説ではない本」がどんどん増えていくような気がします。ハハハ…。