池田晶子『さよならソクラテス』より

さよならソクラテス (新潮文庫)
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新潮社 2004-03
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star3部作のラスト
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いま、池田さんの「ソクラテス」シリーズ(?)の最後の本を読んでます。ほほぅと思ったのはソクラテスとクサンチッペの会話で構成されている章なんですが、ソクラテスの発言のみをメモ(※これらはすべて池田さんの創作です。ソクラテス本人はこんなこと言ってませんのでw)。

親が子を愛するなんてのは血がつながってるから愛するにすぎないのであって、決して自然というわけじゃない。そして、自然ではないところのものを、僕らは文化と呼ぶ。親子の愛というのは、そもそもが文化的な幻想なのだよ。いいかね、母親が自分の子供を愛するのは、それが自分の子供だからなんだろ。それが自分の子供でなけりゃ、愛するかどうかはわからないんだろ。すると、母親が愛するのは、その子供が自分の子供であるというそのことの方であって、決してその子供そのものの方ではないというわけだ。「自分の子供」から「その子供」を引いたら、何が残るか。そうだ、自分だ、自己愛だ。母親の愛というのは、何を隠そう、猛烈な自己愛なのだ。彼女らの無私の愛というのは、恐るべきエゴイズムの裏返しなのだよ。いや、これは本当だ。自分の子供を愛する母親は、決してその子を愛しているのではなくて、どこまでも自分を愛しているのだ。いやそんなことはない、私は自分を捨ててもその子を愛しているというのなら、その子が自分の子でなくても愛せるんでなけりゃおかしいじゃないか。

母親が我が子を愛するのは自然の情だと、お前は言ったね。なるほど、それを自然というなら、これ以上の自然はないだろう。だってそれは、我が子だから愛するという、自然な自己愛なんだから。自分さえよければいいんだから。だからこそやはり、文化という擬制が必要になるわけなのだ。母親はあくまでも母親という役割を演じるべきだという、ロールプレイがね。いや、どう考えても母親ってのは、無茶な、あり得ない役回りだ。よほどの覚悟があるんでなけりゃ、まあ普通にはできんよね。

子供とは誰であり、子供は誰の所有なのかってことさ。生まれた子供は、自分は自分であり親の所有でないと思う。親は子供は自分の所有であり、子供もそう思うべきだと思う、ここに確執が生じる。親は、自分だってそうやって自分の親から逃れてきたのを忘れて、またぞろ同じことを繰り返すんだから、これは文字通りの因果だね。過てる人類史だ。