『見えない音、聴こえない絵』大竹伸朗

見えない音、聴こえない絵
見えない音、聴こえない絵大竹 伸朗

新潮社 2008-12
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illustration (イラストレーション) 2008年 11月号 [雑誌] 大竹伸朗 全景 1955-2006 既にそこにあるもの (ちくま文庫) ネオンと絵具箱 現な像


ちょっと前に読んだ本だけど、一応記録。これは、少年の頃の創作についてや「全景展」への軌跡を書いたエッセイ。『全景』図録にもこのエッセイは収録されているのですがその後の連載(『新潮』にて)21回分が追加されています。これ読んだ後に図録を見てみるとまた違った感覚になりました。とにかく、小さい頃からの感性のするどさには驚きますね。やっぱ天才は小さい頃から違うわ〜(笑)。親が子を英才教育したところで何の意味もないのよね(たぶんw)。


以下、例によってメモ(引用)

日常にせよ作品にせよ、「影響」とか「効果」というものは、当人が気づきえない所にあり続けていることによって絶妙なバランスがもたらされているのだろう。 
意識と無意識の編み目の中をどのように自分が泳ぎきるのか、そんな微妙なかけひきがあるものの裏側に潜んでいるのかもしれない。

 人がやらなければならないことは一体どんなことなのだろうと漠然と思う。
 人がそれぞれ与えられた一生の中で「やるべきこと」、それは実はナニモナイことの裏返しなのかもしれないと時々思う。
 絵を描きたいという気持ちが意味もなくスッと風のように心に浮かぶ瞬間。今も昔もその瞬間を一番信じている。それは自分の内側で常に「やるべきこと」とはまったく違う場所に浮かぶ。

絵を描きたくない気分の時は気分転換することが一番だといった考えはあまり信じていない。世間に通りのいい理屈はいつもウソ臭い言い訳であることが多い。

 この世には見えない集積された無数の記憶、また過去から今に至る時間の上にさまざまなる「既にそこにあるもの」があり、またそれを感知しうる/しえない進行形の「今」があり、そして感知し衝動が起きたその瞬間、「未だここにないもの」というこれからやってくる時間に既に足を踏み入れている。

一枚の絵でも、街角の公衆便所の卑猥な落書きでも、また見上げる美しい夕空でも、何かを見たり経験したりすることによって、それまで経験しえなかった出来事が誰かの内側で起きてしまうその瞬間、そこに僕は「芸術」というものの核を見る。「芸術」かそうでないのかは、モノとしての作品自体の中にあるのではなく、また事の発端、動機がいかなるものであれ、結局それを経験した人の内側で起きてしまうのか、そうでないのかなのだと自分自身では思っている。
 それが起きた瞬間、それは消え去る。その人の中で残ったものはまったく異なるものであり、それは既に「芸術」という場所にいない。

他にも気になる文章はたくさんあるのですが、この辺にしておきます。また読みたい本です。