池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』読了

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

巻末に収録の未発表原稿「死とは何か─現象と論理のはざまで」に全てが集約されている気がします。亡くなる直前に、医療関係者に哲学のことを語ったというのも何かのめぐりあわせなんかな。簡単な感想としては、「悩んで」ないで、もっと「考えよ」ということと、なんで私っていろいろ「考え」ちゃうんだろうと思った時もあるけど、それでいいんだということかな。思う存分考えればいいんだ、悩むのでなくて。それと、自分が納得いかないことに無理して流されなくてもいいのかな、とか。でも、まだまだスパッといかないんだけど。


ちょっとだけ引用。

 考えてもみてください。「私とは何か」と悩むとき、その<私>とは、では何ですか。自分の名前や肉体以外でそれを示せますか。あるいは、「なぜ生きるのか」「どうせ死ぬのに」と悩むとき、<生死>はそれほど確実ですか。死が無なら、無いものを恐れて生きていることになりませんか。
 きちんと論理的に考えさえするなら、たいていの悩みなんてのは、確実に消失してしまうのだ。なぜなら、そのことを悩む以前に、悩まれている事柄の「何であるか」を考えるほうが、順序としては先だからである。わからないものを悩むわけにはいかない、わからないものは考えられるべきである。
 それでもどうしても悩んでしまうという人は、要するに、悩んでいたい、甘えていたいということ以外ではあり得ない。それは、人生にとって、明らかに無駄な時間です。即刻やめましょう。

 人間が言葉を話しているのではない。言葉が人間によって話しているのだ。生涯に一度でも、この逆転した視点から、自分と宇宙を眺めてみるといい。人生とは言葉そのものなのだと、人は必ず気がつくはずなのだ。(中略)
 言葉を信じていない人は、自分のことをも信じていない。しかし、自分を信じていない人生を生きるのは、とても苦しくて大変だ。言葉ではああ言ったけれども、本当はそうは思っていない。そんなふうにしか生きられない人生は不幸だ。言葉と人生が一致していない人生は不幸だ。だから、本当の自分はどこにいるのかを、人はあちこちに探し求めることになる。しかし、本当の自分とは、本当の言葉を語る自分でしかない。本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する。言葉は道具なんかではない。言葉は、自分そのものなのだ。
 だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなのだ。自分の語る一語一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ。そのようにして、生きることだ。

どのページ開いてもドキドキする。そんな本でしたね〜。どこを引用するかなんて決められないので、今日の気分でアップしただけです。


池田晶子『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』読了 - 靴紐直して走るだけ