池田晶子『41歳からの哲学』読了

41歳からの哲学

41歳からの哲学

だいぶ前に買った本ですが、ようやく読了。「週刊新潮」で連載していたものをまとめたもので、人間の「死に方」や「死」がテーマ。私は昔からそういうことに興味があるので、わくわくしながら読みましたね。変かな。でも、池田さんの言うことをどれだけ理解できてるかは分からないけど(笑)。


自分がこころにひっかかっていたことを、ばっさりと斬ってくれて爽快。いろいろ共感するところはあるけれど、今日は以下の部分を引用(紹介)します。

 けれども、人間は半端に自然を脱した存在だから、自然ではあり得ないことを、意志と称してあれこれ仕出かす。しかし、自分が何をしているのかを理性により自覚しないそのような人間は、だからなるほど未だ人間ではない。しかし動物でもない。何かそのような異種動物的人間が存在するから、人間社会は責任という人為的概念を必要とするのである。
 それら動物人間の親たちを指して、「親である資格がない」とも人は言う。が、もしそれを言うなら、性交する資格をこそ問うべきであろう。親であるのに資格はいらない。性交することができる人間なら、誰でも自ずから親になることはできるのである。努力も能力も必要ないのである。これは、よく考えると、とんでもないことではなかろうか。
 親であるということは、一人の人間を肉体的にも精神的にも一人前の人間に育て上げるということである。これは、ある意味では、この世で最も難しい仕事である。対して、性交するということには、努力も能力も必要ない。自然にまかせて致せばよろしいだけである。ゆえにこれは、ある意味では、この世で最も易しい行為である。つまり、人間においては、最も難しいことと最も易しいこととが、同一の事柄として抱き合わせになっているのである。ここに、人間存在の矛盾と困難がある。これは存在構造の問題なのである。なぜ我々はいつもかくも問題的な存在なのか。
p145〜146「虐待するなら子供を作るなー親」より


池田さんの本を読んでいると、気が楽になる。なんだ、そういうことだったのか、とか、あぁ、私の悩みは悩みでないんだ。考えていいことなんだ(間違っていないんだ)、と。昨日、認知療法の本を読んで(コラム法を実践し)少し凹んだけれど、私には認知療法よりも、はるかに池田さんの本に救われると思った。最近、池田さんの新しい本が出版されました。しかも、このシリーズは<池田晶子「最後の」新刊3冊>だとか。テーマはそれぞれ、「魂」「私」「死」…。一昨日発売されたのは『魂とは何か──さて死んだのは誰なのか』。くぅ、たまらんね。明日、買ってこよ(笑)。

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか



☆今年は大竹伸朗が受賞されたんですね