河合隼雄『イメージの心理学』

イメージの心理学

イメージの心理学

ブクオフで買った本。帯に「ユング心理学はイメージの心理学である。人類の意識の深層に生じる神話、昔話、象徴、記号。それらの生命力を鍵に、夢や幻覚など個人のイメージ体験の根源にひそむ<人間の心的現実>を芸術、宗教、セラピーほかさまざまな角度からさぐる。>とあったので、ほほぅ〜と思ったのだけど、読んでみると、それぞれのテーマについての深い部分での話はやはりそれぞれの著書を読むべきだよなというか…。


自分の前提知識がないテーマに関しては難しく感じたけど、興味がある「夢分析」などの分野については「もっと解説聞きたかった」という感じで消化不良。この文章は雑誌に連載していたものだから仕方ないのかな〜という気もしますが。また、基本的には治療者に向けた文章だと思うので、それがちょっと難しく感じたのかもしれない。


ただ、読んでいて、あれ? これは保坂和志が小説だったりエッセイだったりで言ってることと同じ?と感じる部分もあった。それは、本を読んで、自分のモヤモヤが浮き出てきてるだけかもしれないけど。でも、やっぱ、なんか「あ、繋がった」って感じがした。それが楽しかった。


もちろん、本書の中にも面白い部分はたくさんあり、いちばんのめり込んで読んだところは「夢分析」のなかの「「体験」としての夢」「夢を生きる」というところ。夢分析というと「○○が出て来たら○○の象徴」的な感じだけどそうではなく、「夢の特徴は、あくまで「私の体験」であり、それをどのように受けとめるかは、あくまでその夢を見た「私」にかかわることである」という。

 人間という存在は「自然」に反する傾向をもっている。一個の人間は行きてゆくために随分と無理をしている。夜おそくまで起きて仕事をしたり、腹が立っても抑えていたり、普通には考えられない早さで空間移動を行ったり、これらすべてのことを、人間は「生きてゆくために」必要なこととしている。しかし、人間というひとつの「存在」はそのすべてを生きる上で、もっと異なるスケールと異なる次元での活動を期待している。夢はまさにそのような人間の全存在的なはたらきとかかわるものである。このため、人間は日常生活においては、普通に暮らしている(これが凄い無理なことなのだ)が、人間の存在自体のはたらきの一環として、夢のなかでは、人を傷つけたり、追いかけられたり、空を飛んだり、穴に落ちこんだりしなくてはならない。人間の存在自体の回復運動として夢がある。(p.114)

 夢を生きるということは、夢によって得たことと外的現実とが大いにからみ合ってくることを意味する。(中略)
 外的現実のみではなく夢に注目することによって、われわれの生活がより豊かになる──ということは、楽しみも倍加するが、苦しみも倍加することなのだ。苦しみなくして真の楽しみはあり得ないのだから、これも仕方ないことである。(p.118)

「夢を生きている」民族であるセノイ族の話も興味深かったなぁ。箱庭療法のテーマでは「ゲニウス・ロキ」ということを初めて知った。

 ゲニウス・ロキというのは、ある場所や土地がその精霊(スピリット)をもつという考えである。現代人はどうしても人間の個人を主体として考えるが、このことは既に述べたような、宙に浮いた自我の存在ということになり勝ちである。近代自我は、時間と空間とを分けて考え、ある特定の時間、空間に自分が存在し、また次の時間には、自分はどこかに移動している、つまり、自我を主体として考えている。しかし、ゲニウス・ロキの考えでは、空間が均質的に存在しているのではなく、ある特定の場所において時間・空間が一体化して、そこにおいては、その精霊が主体性をもち、そこにおいて生じる現象のなかに、人の方が参加させられることになる。(p.136)

ここ読んで、あ、これ保坂の…って思ったんだけど、どの小説(エッセイ)のどこにヒットしたのか(苦笑)…。『小説修業』にあった

「(略)<記憶>とは場所にもあると言えるんじゃないかと思うのです。<記憶>とは辞書の項目のように誰が調べても同じという性質のものではなくて、響き合う人にだけ現われる。つまり人間は、「記憶を持っている」のではなくて、「記憶を渡り歩いている」。

かなぁ。でももっとそのまんまなところがあった気が…。時間かけて探してみます…。何だろ、保坂以外の本読んでも、あ、これ保坂が言ってたって思い込んでるのかなぁ。なんなんだろw


「イメージと創造性」のなかの「ポアンカレの体験」「芸術の場合」のところで、「乗合馬車に乗った。その階段に足が触れたその瞬間」天啓が下った如くに考えのひらけた例、画家が「いつも見なれていた杉林の樹幹が、天地を貫く大円柱となって僕に迫ってきた」という圧倒的な体験が挙げられています。ポアンカレの体験から「創造の病い」とエレンベルガーがその存在を指摘しているそうですが、こういうことは普通の人間にもあるんじゃないかなぁと思ったり。この部分こそ、最近読んだ保坂氏の『猫の散歩道』に載っていた部分(「答えが風景からもたらされた」p.52)と重なって考えたところなんだけど。

「創造」したいと思う者は、それがいかにエネルギーを必要とするかを知っていなくてはならない。(中略)葛藤を抱きかかえていることは、実に大量の心的エネルギーを必要とすることである。天才と言われる人は、そのような凄まじいエネルギー消費に耐える人である。一般的な意味における「努力」の跡の見えない天才も、消費しているエネルギーは莫大なものであるに違いない。ただ、その痕跡が一般人には見えないからではなかろうか。天才モーツァルトが若くして死んだのも、こんなところに要因があるかも知れない。(中略)
 われわれ普通人は、モーツァルトのように作品をつぎつぎ生み出したりすることはできない。しかし、自分の人生こそが作品であり、それをかけがえのないものとするための努力がいると思われる。そのためにはイメージ、あるいは自分の人生に対するヴィジョンを持たねばならない。ただ、能率よく、面倒なことを避けて、生きることばかりを考えていると、それは大量生産の商品と同様のものになって、何らかの個性ももたなくなってしまう。自分の人生は手づくりでつくりあげねばならない。(p.213〜214)

むむ、ちょいと耳が痛いです…。河合先生は以前読んだ本でも、「自分で物語を作っていくことが大事」と言ってた気がします。それはとても難しいことだなと思ったっきり、ヴィジョンなんて全然考えてなかった。ヴィジョンを私なんかが思い浮かべていいんだろかという精神状態だからな、今…。でも、もし未来があったとしてその時生きてて何の個性もないのなんてやっぱヤだ(今も個性ないけど)。そう思ったら腹を括るしかないんだけどね。「夢を生きる」ことも頭に入れつつ考えてみようかな。