池田晶子『考える日々』読了

考える日々
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池田さんの本は結構読んできているので、「あれ?これはどこかで読んだような…」というところも多かったけれど、その部分も含めちょっと引用しておこうかなと(自分メモ)。

「生きていればいいこともある」という言い方で、自分や他人を慰める仕方があるが、あれはおかしい。「生きていればいいこともある」とは、裏返し、「生きていればもっと悪いこともある」である。少しも慰めたことになっていない。このような考え方自体が、じつは「苦しみ」のもとになっていることを知るべきだろう。
 つまり、あれこれの出来事や境遇を苦しみや喜びと思う、そのことが錯覚なのだ。苦しいのは、それを苦しいと思っている自分(「自分」部分傍点)であって、それらの事柄自体が苦しみであるのではない。「気のもちよう」とは、そういうことだ。あれこれの外的な事柄に動じることのない不動の自己を保つこと、これが、人生の苦しみを苦しみでなくする唯一の方法に違いない。(「苦しみの正体を見究めない限り」p.132)

 人間の定義は、言語的動物であるというところに尽きている。人間は、自身の生死を、言語によって構成する。いや逆に言語こそが、われわれの生死を構成しているのである。(「砲火の前で考えたこと」p.162)

 何が不思議といって、私に最も不思議なのは、人が、不思議なことを不思議と思わないことである。わからないことを「わからない」とわからないことである。わからないことを「わからない」とわかっていないから、わからないことをわかろうとして、わからなくなっているのだ。哲学的に考えていないからである。無知の知が哲学の起点とはソクラテスの言だが、頭があるなら誰でもできることのはずである。(「ここにも明らかな詭弁」p.237)

 ところで、知るべきこと知らなくてもいいことがあるということを知るためには、人は、「知る」とは何かを考えなければならない。「知る」とは何かを考えて知ること、これは古くより「哲学」と呼ばれる普遍的な知の営みである。知ることを愛するから「愛知学(フィロソフィー)」なのである。知ることを愛するのは、それを知ることが自分の知恵となることを知っているからにほかならない。有名人の醜聞を知ることは、自分にとっていかなる知恵ともならない。したがって、それらを知ることを、「知る」とは呼ばない。そんなものを知ることは、「知る」の名にはもとから値してはいないのだ。(「知る」ことは、権利なのか p.257-258)

池田さんの本、10数冊は読んでいるのだけど、はっきりと「自分も癌を患っている」ということを書かれている文章は初めてみたかも。ちょっとしょんぼりしてしまった…。あ、本の帯に「悩むな!」と、背表紙には「元気を出せ!」と書いてある。そうだよな、悩んでばかりでなくもっと「考え」ようと思うのでした。自分の頭のなかで。もっと自由に。