保坂和志『小説の自由』読了

小説の自由
小説の自由
新潮社 2005-06-29
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小説の誕生 小説、世界の奏でる音楽 書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫) 書きあぐねている人のための小説入門 途方に暮れて、人生論

やっと読めた…(苦笑)。ここんとこ胃が痛かったり、なんだかなんだで読む集中力がなかったもので。『書きあぐね』が意外と身近に感じたもので、そのノリで読み始めたんですが、私は1回読んだだけではすんなり呑み込めなくて、2度3度読みかえしたところもこの本にはたくさんあった(苦笑)。それで「何度も読んで解ったか?」と聞かれれば、正直自信はない。なんでだろ。こっちが構えて読んでしまったから難しく感じたのかなぁ(単なる阿呆というのもあるが…)。でも、最後まで読み続けたというのは、私が(も?)小説って何だろうって知りたかったからだと思うんだけど。とにかく、いろんなことを「考えた」なぁ。久しぶりに知恵熱が出るかと思ったよ(笑)。でも、面白いと感じたから最後まで読めたんですけどね。大雑把な感想としては、私は小津の映画が好きなのでそれらへの言及はとっても興味が持てたのと、カフカの『城』、マルケス百年の孤独』が読みたいなぁと…(相変わらず単純です)。いや、私の文章力では、この本に対するまとめ?は出来ません…。Amazonのレビューでも読んでください(笑)。


例によって、気になったところの一部を引用しておきます(個人的メモ)。

3 視線の運動

 私はここに小説という表現の真骨頂があると思う。小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類はどうなるのかといえば、その運動の中にある。(p.60)

 「現象」という言葉は、それ自身が原因とはなりえない言葉で、私というものを出すときには不適当と感じる人もいるかもしれないけれど、私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には、本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない、という認識が視線の運動の基盤にあるのではないか。(p.66)

4 表現、現前するもの

小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説をどこかに連れていく。

 それが小説における表現=現前性で、文字とは抽象化されたものなのだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。(中略)
 だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了承しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。(p.73-74)

8 私に固有でないものが寄り集まって私になる

 私は私が思い込んでいるほど固有な存在ではなく、私の中には常套句のような完結したフレーズや機械とほとんど同等の会話ソフトのようなものが組み込まれ渦巻いている。(p.142)

 人間は類型(図式)の集合体であり、私に固有でないものが寄り集まって私になっている。(p.151)

これでもずいぶん端折って引用したんだけど、キリがないのでもう止める…(苦笑)。つづき『小説の誕生』は、この本をもうちょっと咀嚼してからにしようかな。とりあえず付箋を貼ったところを全て読み返したいですね。


ちなみに、難しいなと感じたのは、フェルマーの定理とかからかな(後半ですね)。私、数学が本当に苦手なので、例として挙げられているだけなんだけど、凄く抵抗がありました(苦笑)。その後、アウグスティヌスは引用部分が多かったもので、保坂さんの文章を読むペースより激しく遅くなり、それがまた(理解出来ない自分に)イライラしたりなんかして。あ、でもアウグスティヌスも読んで行くうちに、慣れて(!)来ましたけどね(笑)。