保坂和志『生きる歓び』読了

生きる歓び (中公文庫)
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まだ凹む前(午前中)に読了w 『生きる歓び』『小実昌さんのこと』の短編二作を収録。少しだけ引用しておく。

 「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食べて、段ボールの中を動き回りはじめた子猫を見て、それを実感した。(P.45『生きる歓び』より)

自己像というのは第三者の視線を想定することで出来上がる。「頼るものの無い」はずの「無頼」な人ほど、第三者の視線を頼りにしている人はいない。「そんなことはない。俺は俺だけだ」と言ったとしても、「俺」というのがすでに第三者と視線が共通になっている「俺」なのだ。(中略)岡本太郎とは違う意味で小実昌さんも第三者の視線を織り込んで「私」を作っていなかった。(P.111-112『小実昌さんのこと』より)

(前略)人間というのは、ああも生きられる、こうも生きられる、といういろいろの選択肢から主体的に自分の生き方を決められるものではなくて、そのレベルは全然小さなことか表面的なことで、もとのところは、「こうとしか生きられない」「こうとしか感じられない」「こうとしか書けない」ものだ。
 それで、作家の価値というのはどういうことになるのかというと、いままでなかったタイプのビョーキを持ち込むということだ。もっともらしくいえば、「新しい書き方を持ち込む」とか「新しい視点を持ち込む」とか「新しい世界観を持ち込む」ということだけれど、それは「ビョーキ」ということなのだ。(P.120-121)