玄侑宗久『現代語訳 般若心経』読了

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

般若心経の意味を知りたいなと思って読み始めましたが、その意味を求めるのも無駄だって途中で気づきました(苦笑)。初めて目にした言葉が多く最初はチンプンカンプンでしたが(今も理解したとは言えませんが)、読んで行くうちに、「それで?それで?」と次が知りたくなり、胃痛などの痛みもあったけれど、最後まで一気に読んじゃいました。


最初、写経がやりたくて、その前に意味をしっておきたいという感じだったんですが、読んだ後は、写経よりも「暗誦するまで読誦すること」がポイントなのかなぁと思いました。響きを感じる・身を委ねることが大切なんですね。お坊さんにお経をあげてもらうとなんか落ち着くのはこういう響きを感じていたからなのかなぁ。

 むろん初めからやすらぎは無理でも、とにかく「いのち」の響きと「全体」に潜在する意味とに静かに身を委ねるのです。そして「花」も「私」も自立的でも恒久的でもなく、隔てなく融合しながら同じ「いのち」の「縁起」のなかにあることを感じとってください。

しかし、その「私」というのが本当にやっかいなんだけどね。

 名づけのなかで、最も罪深いものが「私」という代物です。
 考えてみれば、私たちはモノゴコロがついたときにはすでに生まれていたわけでしょう。そしてそれまで「私」など関係なく生きていた「いのち」を、あるときから「私」だと思い込んだ。以前も申し上げましたが、モノゴコロがつき、知恵づき、そしてさまざまな分別を身につけることでそれが肥大化していく。そうして「いのち」の実相に関係なく、いつからか「私」という名の何者かを中心にモノを見るようになっていったのです。
 当然、先ほどの「花」のように、実物の「いのち」にはなかった自立性や恒久性が「私」にも付加されることになります。ちょっと大胆な言い方をすれば、これこそがあらゆる「苦」の根源かもしれません。「私」の芽である「行」の幻尽こそが修行の一大テーマであったのは、そういうわけなのです。

「私」、要らね(笑)。


構成は、般若心経(大本)の訳がほとんどをしめます。その訳には、量子力学の話など、多用なたとえが出てきて面白いです。「なんかよくわからないけど、最後まで読んじゃった」っていうのが、本音かも(笑)。巻末に、般若心経(小本)の訳。小本というのは、いわゆる社会一般に広がっている「般若心経」です。これまでの訳を読んできたら、この小本というのは、とてもコンパクトに無駄なくまとめられたものなんだなって感じました。


また、読み方も載っているのですが、どこで切るのか分からないので、息切れするんですけど(笑)。お寺で読む時は、分かりやすくスペースが空いてたりしたんですけどね〜。この二文字は一気に読むとか、そういうのもあったんだけどな。決まりはないのかな?


最初、読んでいてとっても難しく感じたのだけど(哲夫の本を立ち読みしてたからかもw)、読み始めたら止まらなくて最終的には「般若心経ってこんな感じ」というのは分かったかなぁ。哲夫の本(『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経 (ヨシモトブックス)』)も早く読んでみたいですけど。