池田晶子『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』読了

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

この本、本屋さんで見つけた時、スピリチュアルコーナーにありました。が、死後の世界のあるなしを問うているのではありません。池田さんならではの<哲学的>アプローチです。哲学と魂って相反するように感じますが、彼女はこう言っています。

 私が問いたいのは、内容ではなくて形式である。<私>という形式、宇宙における何がしかが、<私>という形式として在ることの不思議である。この形式を<魂>と呼んでみたいのだが…(以下略)。☆本文15ページより

(前略)、自分が自分であるところのこれ、ある人がその人であるところのそれ、それやこれのことを、<魂>、と呼んでいるつもりだったのだが。「在るか無いか」ではなくて、すでにこうであるこの事実について、考えているつもりなのだが。☆本文19ページより

 「哲学である限りは」という限定を自らに課して考えるという仕方で私は考えてはこなかった。存在=自己の謎に迫るために自ら取られるであろう態勢を信頼していたとも言える。そこに「心」あるいは<魂>という言葉が、いつの頃からか浮上してくるようになった。自己=思考として揺るがなかったこの等式を、少しずつ、自己=心あるいは魂の方向へとシフトしてみる。すると、そこには、思考される以前の呟きのようなもの、感触、気配、誰とも何ともつかないような事柄の一切が包摂されるようなのだ。一切は、すなわち存在の全現象は、心においてこそ成立しているようなのだ。☆本文239ページより

その上で、考えては、その都度言葉で表現していく。

 まだうんと熟考の必要があるこの事態を、無理を承知で言葉にしてみる。
 ひょっとしたら、「<私>が魂」なのではなく、「<私>の魂」という言い方もなく、
「魂の<私>」というのが、近いのかもしれない。☆本文28ページより

 <魂の体質>という言葉が、ある時、私にやって来た。性格、気質というものを、生理学的体質の側から説明しようとする姿勢を拒否した時、「その人」を言い当てる最も生(なま)なもの。あるいは、「人物」の初期条件。言い得て妙である。☆本文37ページより

この後、どんな言葉が続くかは読んでのお楽しみということで…。他、オウムについてのこと、神戸の事件(少年A)について、脳死などのことなど、<魂>をテーマに語られています。ただ、まぁ、これは池田さんの考えであって、これが正しいというわけでもないだろう、と思うこともありますが。しかし、ここまで考え方がすぱっとしてると、気持ち良いなぁ。そうなりたかったなぁなんて羨ましくなります。


他に気になったところを引用。

 「私探し」というこの言い方が、私は以前からもうひどく気に入らなくて、なぜ気に入らないかというと<私>をどこかに探そうとするその心性の脆弱さのためでなく、そも<私>とは探すべきものだと思っている、その根本的な勘違いのためである。
 そんなの、探さなくたって、ここにあるじゃないの。

本当そうだよ! だから私も「自分探し中なんですね」とか言われるとカーっと来ます(笑)。

 形式論理にとっては、生とは生である、死とは死であり、私であるとは私であることだ。それは自明の大前提である。しかし、「なぜ」、生とは生であり、死とは死なのか。この同一性とは、それ自体、何なのか。疑い始めた思考は気づく。生が生であるのは死があるからで、死が死であるのは生があるからだ。生は死であり、死は生である。よって、生と死は同じでありかつ違うもの、AはAでありAではない。これは、いったい、どういうことか。
 本当の問いは、ここから開ける。「生と死」とは、論理もしくは言語に他ならないと見抜かれてしまえば、論理と言語を超えた思考は自ずから、その向こうを「感じる」という態勢に入らざるを得ないはずだ。感じられているのは、生でも死でもなくこう─在る─この─これ、すなわち「存在」、これの何であるのか、存在の謎である。私は日がな存在の謎を感じつつ暮らしている。「私は」などと、まるでそれが誰かであるかのように言う、しかし、まさしくそれこそ、誰なのか。☆本文237ページより

ん、ちょっと引用しすぎたかな…。


この「さて死んだのは誰なのか」シリーズ(ていうか、3部作の2作目W)が、明日発売です。タイトルは『私とは何か さて死んだのは誰なのか』。そして4日には『死とは何か さて死んだのは誰なのか』も出版されます。近々読んでみたいと思ってます。


池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』読了 - 靴紐直して走るだけ