『文藝』夏号ー作家ファイル1998〜2008

文藝 2008年 05月号 [雑誌]

文藝 2008年 05月号 [雑誌]

文藝 2008年 05月号 [雑誌]』に掲載の川上未映子中原昌也の対談が読みたくて町へ出てやっとこゲット(近所にないんだもん…)。さっそく対談を〜と思ったけど、その前に「斉藤美奈子高橋源一郎がこの10年の小説を徹底検証!」という特集を読む。私は最近の文学を語れるほど本を読んでいるわけではないのですが、それでも、ここんとこ作家性というか何かが「変わってきているのかも」という感覚を持っていました。源一郎曰く「阿部和重さんが九四年にデビューするわけだけど、それは一つの節目だったと思います」と。そして「中原昌也のデビューした九六年っていうのが実は二一世紀文学の始まりではないかと思う。中原以前・中原以後。」って。


こういう話に始まり、「作品」の背景から「作家」が消えた!とか、OSが変わってしまった!なんていう話も面白かった。

近代文学現代文学はソフトじゃなくてOSが違うんですよ」(斉藤)
「小説のすごいところはOSを取り替えてもオッケーっていうところだった」(高橋)

私は中原昌也と同じ70年生まれなんだけど、同じ70年代でももっと下の世代の作家って未映子しか読んだことないんだよなぁ。彼女にはそんなに違和感はないんだけど、他の若い人の作品にはちょっと抵抗もある。「ぼんやり」した感。それって私が古い人間なのかな(笑)。でも、やたら年上の人(古典は別)の作家になると「重く」感じたりもする。と思っていたら源一郎のこんな言葉が。

「やっぱり阿部和重中原昌也町田康の場合には、まだ「私」の問題が残っているんだよね、そう簡単にはソフトを入れ替えられない苦しみが有る。だからどうなるかというとノイズが発生するわけ。つまりソフト入れ替えちゃうよっていいながら軋むわけ。」

思わず納得。そういう時代(中原以前・以後の中間世代?)な人なのかな、私。町田康がかなりしっくりくるんですよねぇ。阿部和重は一作しか読んでないけど、うんうん、「私」はしっかりあるよなぁ。若い作家の作品も読んでみようかなぁ。「OSが変わってる」のを実感したいというかさ(笑)。


肝心の未映子中原昌也の対談。最初は中原昌也がインタビューということだったらしんだけど、埒があかないため未映子の提案で「対談」に変化したのが笑える。中原昌也の記事(対談)って結局モヤモヤして終わっちゃうパターンが多いような気がしますが、未映子との対談では結構いろんなこと語ってる気がしますね〜。未映子さんはインタビュー上手。対談番組やったら面白いのに!(笑)
で、彼女がいろんな雑誌のインタビューで言ってることが最後にまた。

人の痛みを本当の自分の痛みとして感じることなんて絶対にできないからこそ、「人の気持ちを分かることは大事だ」ってふうに、意味を持たせることができるんだと思うんだよ。想像力というのは、あくまで想像の域を出られないからこそ存在意義があるんだと思うの。そんなふうに、他人の感情や苦しみや喜びを絶対に分からない生き物だから、そういう言葉が必要なんだと思う。


そうそう、作家ファイルにいしいしんじも入ってたし(『ぶらんこ乗り』でカウントされてるみたい)、豊田道倫(パラ・ガ)が紹介されてたのがびっくり。そうか、作品はまだ読んでないや。音楽とどう違うのか(同じなのか)気になる…。このファイルを参考にもっといろんな作家さんの作品にも触れられたらなぁと思うのでした。