『寺山修司詩集』読了

寺山修司詩集 (ハルキ文庫) [ 寺山修司 ]

寺山修司の作品集は今までもいくつか読んでいるので、だいたいは知っているものでしたが、何度読んでもその都度、心揺さぶられます。マザーグースの翻訳詩、短歌・俳句、少女詩集、エッセイなど、いろんなカタチのきらめきが堪能できました。ケストナーからヒントを得た「人生処方詩集」の「ひとりぼっちがたまらなかったら」「もしも住む家がなかったら」「幸福が遠すぎたら」がしんみりきます(←精神状態悪いのかなぁ)。「さよならだけが/人生ならば/人生なんか いりません」(「幸福が遠すぎたら」より)。ケストナーの『人生処方詩集 (ちくま文庫)』(もちろんこっちが元です)も読んでみたいです(あと、この前古本屋さんでゲットした『飛ぶ教室』も!)。


先日読んだ少女詩集からもいくつかがピックアップされていましたが、あ、やっぱこれだよねぇというものばかりで、頁めくるたびに興奮します(笑)。今日の気分だと「僕は猫する」「あなたに」「けむり」が鼻血もんかな〜。未刊詩集として「アメリカ」「李庚順 抄」「ロング・グッドバイ」「事物のフォークロア」そして遺稿の「懐かしのわが家」が収録されています。「われに五月を」の初期の初々しい詩と一緒に読むと、なんとも胸に来るものがあります。

 きらめく季節に
 たれがあの帆を歌ったか
 つかのまの僕に
 過ぎてゆく時よ


二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した
(われに五月を「五月の詩」より抜粋)



懐かしのわが家(遺稿)


昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを


子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを知っていたのだ